第2回「手さぐりのアフリカ」
「アフリカの角」と呼ばれる地域一帯に、大干ばつが起きていた当時、そこから救援の舞台にケニアを選んだのには、三つの理由があった。
一つ、日本人でも比較的馴染みのある、英語が公用語であること。
二つ、日本と国交があること。
三つ、内紛がないこと。
ケニアは国の資源がなく、経済的視点では弱みととられる一方、資源を奪い合う戦いは少なかったことが、外から来る人々のハードルをいくらか下げていた。
村上は、現地視察のためケニア・ナイロビへ。
当時日本からのフライトは、飛行機を何度も乗り継ぎ、飛ぶこと40時間。人気の少ない、薄暗い空港へ一人降り立った。
現地視察の猶予はたったの2週間。義援金の使い道を決めるため、村上は歩いて情報を集めるしかなかった。
当時まだ少なかった日本のNGO団体、日本大使館、物流の要・モンバサ港などを訪れ、現地の様子や支援のノウハウを可能な限り日本に持ちかえりたかった。
しかし、現実は甘くない。話を聞こうと訪れた場所で、責任者が仕事に来ていない。事務員に、明日ならいると言われて翌日出直すと、今日もいないと言われる。「昨日、今日はいるって言ったじゃないか。」といえば、「昨日は昨日、今日は今日だろ。」と。こうして日本では1日で済むことに、二日かかり、三日かかり、思うようにことは進まなかった。「これが、ケニアか…。」
しかし、根気よく、我慢強く足を運び、時には何かに導かれるようにたくさんの人との出会いもありながら、村上は一つの糸口を見つけることができた。
東アフリカの玄関口とも呼ばれるケニア東部海岸地区にあるモンバサ港には、毎日国外からたくさんの救援物資が届いていた。
しかし、暑くジメジメした気候と、物流のシステムが行き届いていないモンバサでは、たくさんの食料が飢餓に苦しむ人の手に届かず、むなしく腐ってゴミとなっていたのだ。無念としか言いようがない光景だった。
帰国後、村上の持ち帰った貴重な情報をもとにメンバーは、14トントラック二台と、メイズ(トウモロコシの粉)20トンの購入、そしてこれらを自らの手で輸送することを決めた。ケニアの悪路と砂塵に耐えうる頑丈な日本車と、高い自動車整備技術を持つ日本人。それは極めて日本らしい支援の形でもあったのだ。
そして、3名の有志とともに再びケニアへ渡り、ナイロビの大統領府でトラックの贈呈式をすませると、食料をトゥルカナ地方の奥地、マーサビットに届けるプロジェクトに着手した。果てしなく広がる、真っ青な空の下、ケニアの赤土を巻き上げ、日本製のトラックが荒野を初めて駆け抜けたのは、1982年の出来事だった。
22日間かけて第一回の救援活動が無事に終了し、帰国後の報告を受けると、日本に残るメンバーは安堵と歓喜に沸いた。そしてその後も1〜3ヶ月を1クールとし、2回、3回と救援活動は続けられた。
物も情報もない中での支援活動は、試行錯誤の連続だった。当時、“シフタ”と呼ばれる盗賊が出るルートを避け、時に一面何もない荒地で一日の無事を感謝し、厳しい乾燥と強い日差しに身をさらしていたプロジェクトチームだったが、その充実感は日本で味わうそれとは違った。
回を増すごとに、人が人を呼び、自動車整備チーム、医療スタッフなど、救援部隊はどんどん大きくなっていた。
時を同じくして、滋賀の大津駅に募金箱を持って立つ7人の家族がいた。
「アフリカの飢えた子供にミルクを!のキャンペーンにご協力お願いしま~す」
その後、村上のパートナーとなる塩尻安夫と、その家族だった。